ボロ市
大のおとなが小学生並みの生産性のない日記と、それに輪を掛けてくだらない音源を全世界に発信しています。

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手を怪我してやることがないので考えた

現在の音楽シーンにおいて、リスナーとプレイヤーまたはコンポーザーの間には大きな壁がある。

ジョン・ケージの4'33やエリック・サティのヴェクサシオンが、トリビアの泉で紹介され笑いが起きているのを見るとそれは明らかだ。


原因は言うまでもないが、音楽経験の有無である。
プレイヤーは技術や知識を会得すればするほどリスナーの感性から離れてゆく。


僕はクラシックで云うところの現代音楽(主に無調のもの)を好んで聴き、演奏もする。



それはほとんど一般的に受け入れられていない。



その理由の一つは上に書いたように、その音楽の持つ当時における「斬新さ」という聴き所を楽しむにはある程度の音楽史や和声の知識を必要とするからだと思う。



これを見ている人には、僕は「高邁な芸術を理解し享受している」ところにステータスを依存しているだけに写るかもしれないが。



そして、無調ほか新しい旋法の楽曲が理解されない理由はもう一つあると思う。

それは元来の調性音楽の表現可能性を限界まで広げたことで生まれた「リアリティ」だ。



極端な話、長調には明るい、短調には暗いという決められたイメージがある。
実際、子供が調について教わるとき必ず最初にこう習う。



つまり誤解を恐れずに言えば、それまで多くの人にとって音楽はいい意味での「現実(リアル)からの逃避」だった。



ところがより表現の濃密な新しい旋法の登場で、音楽の効果はよりリアルに、聴く者の心情を反映する鏡のような役割へとシフトしていく。


オリヴィエ・メシアンの「鳥のカタログ」はその良い例だ。


そこに一切のはっきりとした感情はなく、囀る鳥の声などの自然音がピアノによって淡々と描写されている。


音楽にさほど詳しくない友人に聴かせても返ってくる答えはみな一様に「訳がわからない」。


新しい概念が理解されないのは当然のことだが、この曲は1958年に作られたものだ。
決して「新しい」ものではない。
このコンポーザーと一般的なリスナーの感覚の差は決定的だ。


割り切って2通りの曲を書ける坂本龍一はすごい人だが、2つの感覚の融合を300年前に成し遂げていたヨハン・ゼバスティアン・バッハの足下にも及ばない。




音楽の父はいつまで君臨するのだろう?
















まぁ考えても仕方ないことなので、とりあえずアメマバッジでも作って大儲けしよう。

そういうことだ。
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